連載

「マジ?…僕、父になる!?」初めての子供。失敗しながら男はやっと父になる。

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1.プロローグ…

本題に入る前に、ちょっとだけ僕の自己紹介をします。現在、熊本県在住です。夫婦ともども関東出身。2012年から東北の震災をきっかけに、なんの身寄りもない土地に移住しました。当時2歳だった長女を連れて。

移住と同時に起業しました。もともとサラリーマンでしたが、現在の職業はサンバダンサー、モデル、画家、ライターをしております。年齢は就職氷河期世代とだけお伝えします(笑)。

長女が生まれたのは東北震災が起きるほんの2か月前、夫婦ともども自分の好きなことを思い切りやりたい性分でしたので、結婚してから3年ほどは妊活に積極的ではなかった。ちなみに新婚旅行は南米を2か月かけて半周するくらいの南米好き。ちょっとラテンの血が濃いのだと思います。

とはいえ、僕は子供はずっと欲しかった。妻と出会う前に恋愛で大失敗した失意の中、春先の公園でみかけた親子連れがキラキラ輝いて見えた。ベビーカーをおす自分を想像しただけて気持ちが温かくなった。

「あ〜、いいなぁ。自分の家族…」とか想いながら目を細めたりして。まぁ、実際なっていみると「ベビーカーを押すシチュエーション」の前後には嵐のような「お出かけ準備」やら、なぜか出かける寸前にウンチをする子供に四苦八苦して、現実はそれほど甘くはないのですが。

決して若い年齢ではなかったので、いわゆる妊活を始めてすぐにできた訳ではありませんでした。妻には基礎体温を測ってもらったり、男なりに準備をしたりして。具体的に言うと亜鉛飲んだり、山芋食べたり、赤ひげ先生的なところに行ってみたり(笑)精子チェックも受けました。

2.知らせは唐突…

その当時はまだ僕はサラリーマンで、副業でダンサーをしていました。仕事から帰ってくると神妙な面持ちで「もしかしたらできたかもしれない」と妻が伝えてきます。その言葉に喜ぶよりも先に、なんともあっけない現実に呆然としました。「おめでとう!嬉しい!とかないの!?」と妻に怒られて、初めて我に返った。

映画やドラマだったら効果音とかエフェクトが入りドラマチックな演出になって、夫婦抱き合って喜ぶ的なシーンになるでしょうが、実際は肉体的に何の実感もない男にとって「現実味のない唐突な知らせ」なのです。

正直「マジ?」としか言いようがない。よっぽどガリガリ君で「当たり」が出た時の方が、間髪入れずストレートに喜びを表現できる。やはり男の実感はその程度では?と個人的には思う。とはいえ、じわじわと喜びが湧き上がってくる。徐々に感動を表現したくなる。妻が期待したタイミングからだいぶ遅れてから「うぉー!!」とか叫んでたと思います。

ですが、残念ながらその子は流産してしまいました。その知らせも唐突。妻は冷静で妊娠が分かった時も「まだどうなるかわからないから、安定するまで誰にも言わないで」と言っていた事を朧気に覚えている。印象の強い事だけが記憶に残っていた。特に妊娠の喜びだけで他を聞いていなかった。そんなことあるの?という気持ちしかなかった。

知り合いの話やゴシップ記事では聞くけど、実際自分事になると男でも狼狽える。自分の種が悪かったのか?とか。遺伝子レベルで成長できない卵だったの話でしたが、本当にへこんだ。 

3.男なんてこんなもの。

子供の事となるとやはり女性は強い。最初の子の流産を冷静に乗り越える妻に感心しました。へこみまくる僕に「仕方ない!次頑張ろう!」と背中をたたく。すごい!男前や!と思ったり。大丈夫だろうか?このまま子供が出来なかったらどうしよう?とか不安になったりと、男が妊娠出産で何ができるわけでもないのに男なんてこんなものか。とつくづく感じた。

少しだけ僕の当時の状況に話をします。前述しましたが僕は兼業サラリーマンでした。サンバダンサーとしてもレッスンを開き収入を得ていた。出演ともなると日中の仕事の後にリハーサルや打ち合わせ等で帰りが遅くなる。出演が終われば打ち上げもある。

やりたいことを思い切りやらせてもらえる状況ではありましたが、当時の僕はそこまで妻に対する「ありがたみ」を感じていなかったと思う。ちなみに妻は看護師です。フルタイムで働いていたので夜勤もある。お互いの時間が合わずすれ違い。妊活しようにもどちらかが疲れ切っている。週末は週末で出演やイベントがある。今思えば「よくこれで子供ができたな」と思う。 

不妊治療をしていたわけではありませんが、後半は妊活が苦痛になっていた。僕も妻もイライラすることが多かった。第一子を授かった2009年から2010年のあたりは僕にとって節目の年を迎える準備期間でもあった。サラリーマンの仕事よりもダンサーの仕事へ掛けるエネルギーが圧倒的に高くなっていた。忙殺の年といってもいい時期、夫婦の言い争いも多かったと思います。

4.仕事は大切だが「言い訳」にはならない

もう少しだけ僕の当時の状況を話します。僕はサラリーマンでしたが、正確には駄目リーマンでした。15年サラリーマンをしていましたが、その間に転職を5回しています。2、3年に一回転職している計算になる。サラリーマンと結婚したつもりだった妻は「この人仕事が長続きしない」と思っていたそうです。当然不安になる。それが夫婦の言い争いの原因。

今でこそ妻はダンサーの仕事を認めてくれて応援してくれていますが、当時は「ダンサーなんて夢は諦めて、サラリーマンに集中してほしい」と考えていたそうで、当たり前といえば当たり前な話ですが。僕自身はサラリーマンという仕事に思い悩み、限界を感じている時期でもあった。

そんな中、待望の妊娠の知らせ。その時は慎重に喜びました。「安定期に入るまでは安心できない」ので。そして漸く安定期を迎える。エコー検査でやっと形になった小さな命見る事ができました。白黒の小さな写真には確かに我が子が写っている。嬉しいという気持ちと不思議という気持ち、少なくとも自分が父親になる実感ではなかった。もう一つの感情は不安。色々な不安があった。

昔、学生の頃、北海道の友人宅に遊びに行ったとき子犬を拾った。親に相談もなく連れ帰り、自分の部屋で子犬と初めて一緒に寝た時の記憶。とても妙な例えですが、その時のことを思い出した。勢いで連れてきたけどこの命をちゃんと育てられるのか?とんでもない事をしてしまったのでは?責任もてるの?

自分に父親が務まるのか?仕事も安定しないのに。小さなエコー写真を手に喜びと不安が入り混じる。そんな気持ちとは裏腹にダンサーとしての活動はますます忙しくなっていきました。

5.その時、自分に何ができるか?【妊活中】

「もしも、この子が障害児だったらどうしよう?」安定期を過ぎたころ妻が唐突に聞いてきました。僕はこの言葉で腹をくくりました。男性は子供ができたからと言って自動的に「父親になる」訳ではないと思います。

子宮やらホルモンの関係やら、生物学的に変化していく女性とは違います。男性は自ら自分に言い聞かせながら意識の刷り込みの積み重ねで父親になっていくのだと思う。つまり「頭から父親になる」ということ。

妻も不安でした。一回流産を経験しているし、生まれてくる子が障害児だという可能性もゼロではない。そうなる客観的な要素があった訳ではありませんが、妻は妊娠すると無意識に不安の種を探し出してしまう様に観えました。その時、男性としては何ができるのか?一言で言うなら「カラ元気」です。

自分が不安だろうが、モヤモヤが解消できてなかろうが、そんなもんは関係無いんです。変な話、嘘でもいいから「心配するな。大丈夫だ」って言わなきゃダメなんです。

このときに女性と一緒になって「どうしよう?」とか言ってはダメ。僕自身も「どうしよう。すっげぇ不安だ!」と思ってもグッとこらえて言いました。「つまらないこというな!どんな子が生まれたって立派に育ててやる!」その一言は自分が父親になるための、刷り込みの言葉でもありました。妻に言っていますが、実際は自分に言って鼓舞してました。

初産であればなおさら不安になることが多くなる。でも男性の不安は女性の比ではない。家事の手伝いといった物理的なサポート以上に、精神的なサポートが男性の大切な役割だと思う。それは妻のためでもあり、自分のためでもある。その意味で言うと当時の僕はどうだったか?お世辞にも役割を果たしていたとは思えない。

6.その時、自分に何ができるか?【妊娠中】

僕自身の密かな不安とは裏腹に妻のお腹は順調に大きくなっていく。この頃になると忙しい合間をぬってプレママ・パパ講習会的なものに参加するようになった。同じくらいの年代のカップルもいる。公民館の和室などで開催される講習会。産休に入った妻はそういった情報をどこからか沢山集めてきては、僕を連れ出しました。

今となっては何をしたかはあまり覚えてないですが、出産に際しての心構えやらマッサージの仕方やらを習った記憶があります。そのころの僕はサラリーマンの仕事が芳しくないのと、忙しくなる一方のダンサーの仕事で頭がいっぱいで、講習会に参加しても上の空だったと思います。

正直、「出産で男ができることはない。ほっといても生まれるでしょ」くらいの気分だったと思う。表には出なくてもそれが行動に現れていた。その行動がまた妻の逆鱗に触れることがあった。サンバダンサーとしての活動は夏がピークを
迎えます。そうなると毎晩帰りが遅くなる。身重の妻をおいて夜中に帰ってくることもありました。

今の僕ならとても考えられない。「もう堕ろす!」とまで言われることもあった。それくらいダメなプレパパでした。傍にいてマッサージをするだけで違う。妻の話を聞くだけで違う。これは個人的な感想ですが、妊娠中の妻への対応はお腹の子に伝わっている。ちゃんと大事にしなかった事実はヘソの緒を通じて赤ちゃんの記憶に残ってると思う。

仕事は言い訳にならない。

7.その時、自分に何ができるか?【出産間近】

ドタバタの十月十日(とつきとおか)が過ぎ、どうにか出産間近となりました。さすがの僕も心を入れ替え?出来る限りのケアをするようになりました。妻が「パクチーが食べたい」といえば探し回って買い求め。「ゼリー飲料が飲みたい」といえば山のように用意し、炊事洗濯も雑ながらやるようになりました。

が、出産となると、正直何をどうしたらいいのか全く分からない。未知の領域です。妻以上に恐怖を感じたのを覚えてます。あんだけ大きくなったお腹から人間が一人生まれてくるなんて!恐ろしい。出産で女性が死んでしまうこともあると聞いたことがある。それこそ男が出来ることはないとわかっていても、ネットやら本を読んでは浅知恵を着けていました。

1月11日。仕事から帰って家でくつろいでいると「あ、生まれるかも」と唐突に嫁がいいます。焦りました。夜の10時を過ぎたあたり。どうすればいい?都会暮らしなので車なんてありません。タクシー呼ぶか?入院の準備を?とりあえずゼリー買ってくるか?僕の狼狽えぶりに妻が笑ってました。

僕はズボンはジャージなのにジャケットを羽織って、リュックをもって、右往左往です。

妻は産むならここで産みたいという助産院があり、僕は慌ててそこに電話をかけました。夜勤の助産師が不機嫌そうに出ると取り乱してる僕に「奥さんとかわって」と一言。すごすごと、お腹を押さえている妻に電話を渡します。なにやら段取りをしている様子。僕はジャージ&スーツ上状態で立ち尽くす。男はこんなときなんと無力なのか…。

8.その時、自分に何ができるか?【出産】

妻は電話口でウンウンと頷く。電話を切るとやおら「階段の上り下りをしろって」と言いました。「おシルシ」がどうとか。とにかく「まだ産まれないから、出産を促進させるためにとにかく動け」と…ざっくりな情報で申し訳ない。

おそらくこの文章は詳しい出産ハウツーにはなり得ないと思う。ただ男性目線ではこの程度の情報量しかないのです。よくわからない状況で「何かをしなければ」という気持ちだけが先走る。これが出産を目の前にした男性の心理状態です。

当時住んでいたアパートは4階建て。エレベーターはありません。肌寒い建物内の階段を汗だくで妻が上り下りしている。なんだか…プッと笑ったら、妻から激怒されました。夜中過ぎになっていよいよ助産院に行くことに。真冬の夜中タクシーを飛ばして自宅から一時間ほどのところにある助産院へ。ただならぬ気配にタクシーの運転手も焦る。無駄に飛ばす。

民家を改装したような助産院につくと、眠そうな顔の助産師が顔を出します。血圧図ったり、開口部?を検査して何センチなどと言っていた記憶がある。もう少し陣痛を促進させたいからということで、そこでも階段の上り下りをさせられる。あとから聞くと足が酷い筋肉痛になったと。

水分や栄養補給のためにミネラルウォーターやゼリー飲料、バナナを山ほど持って行った。妻は口にする余裕がほぼない。いよいよ出産となり立ち会う。講習会で習った痛みを和らげるマッサージをする。それが相当ウザかったらしいです。「ウンチ出るー!」とか妻が叫ぶ。せっかくの立ち合い出産なのに僕は固まってました。

そして数時間後明け方近くに出産。小さな小さな女の子。「何だこりゃ?こんなに苦労してこんだけか?」とか思ったのを覚えてます。もう一人くらい出てきてもいいだろとか。産湯で我が子を洗う。小さくてか弱い命。結局、何もできなかった。出産は女性のとても動物的な活動だなと。当時の僕にはカルチャーショック?だったのを覚えている。

9.僕、嫌われてる?男はやっと父になる。

第一子が生まれた年の春、いわゆる3.11がありました。多くの人もそうだった思うが、僕にとっても節目の年でした。その年の10月、15年間のサラリーマン生活から卒業した。生まれたばかりの子供がいるのにと思われるかもしれない。でも、とても続けることはできなかったし、どうにもならない流れというのはある。

ところで胎児の記憶についてどんなイメージがあるでしょうか。僕はスピ好きの人間ではありませんが、前述のとおり生まれる前の出来事は少なからず子供の行動に反映されると思う。

妻が妊娠中、僕は良い夫ではなかった。妻を泣かすことも度々あった。だから僕は赤ん坊から嫌われていたと思う。なんの根拠もないが、第一子である長女を僕の手で寝かしつけできたことは、記憶にあるだけでも10回もない。自分の足が棒になるくらい揺らして、長女が泣きつかれて寝るといった具合でした。

長女は僕に抱かれると、とにかく泣きました。3.11の放射能騒ぎで水を買いに行くときも泣き叫ぶ、長女を背負いながら自転車を走らせたのを覚えている。おむつを替えようとしても泣く。風呂に入れようとしても泣く。片時も妻から離れなかった。

そんな状況の中で良い環境で子育てをするために移住先探しをした。いろいろなことが重なった2011年、子供を守るために行動し続け僕はやっと父になっていった。繰り返しますが女性は生物的に母になるが、男性は経験からしか父になれない。その経験をするチャンスは子供を授かった瞬間から始まっている。だから世のプレパパはそのチャンスを大切に活かしてほしいと思います。

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この記事を書いたライター

サンバダンサーMasashiさん

■本名:伊藤雅史「アブド・アート」代表、ホームページ「アモーブラジル」で検索■東京都出身■1999年よりClubでダンサーとして活動を開始。2002年からサンバダンサーに転向、ブラジルでのサンバ修行を重ね、2012年熊本へと移住。「サンバ熊本」立ち上げ。「アブド・アート」立ち上げ。2018年ドイツ、エッセン州コンテンポラリーアート展に出展する。「ダンスとアートで世界を変える」をキーワードに、国内外幅広く活動をしている。

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